9月12日、例年なら残暑が厳しいのに、今年は夏も短く最近は朝晩は肌寒いくらいの日々です。しかも今朝は雨が今にも降りそうな空模様(写真左)。福井県へ観光に行こうと思っていたのに
どうしようか悩む天気です。でも来週はシルバーウィークだし、その後もF1観戦と西条酒祭りに東広島に戻らないといけないし。そこうしてると北陸地方は寒くなるのも早いし・・・・。
やはり今日行っておくしかない!って事で雨にも負けず行って来ました。 高速道路も休日1000円だし、早速一番近い鈴鹿インターより高速道路へIN。第2名神から草津で名神高速を名古屋方面へ行き、さらに米原から北陸自動車道へ。 この辺りから雨もだんだん激しくなってきて、ワイパー動かしても間に合わないくらいの大雨・・・。それでもここまできて引き返すわけにもいかないしね・・・。 途中若狭湾に一番近いPAで休憩し、若狭湾を眺めようと思ったんだけど、写真右の様に雨で霧がかかってて、手前の海岸線ぐらいしか見えない・・(´_`。)グスン | |
そんな雨にも負けず、アパートを出発して約3時間、福井市に到着です。街中ということもあり無料の駐車場は当然なく、直ぐ近くの市営駐車場(1時間300円)に車を停め歩いて1分で
最初の目的地「北の庄城跡」に到着です。ここほんと街中の中心地って感じの所にあります。
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北の庄城と言えば、歴史に詳しい人、特に戦国武将が好きな方には有名なお城ですよね。城主は織田信長の筆頭家老である柴田勝家です。鬼柴田と言われた豪傑で、天下統一に向かう織田軍団でも
超武闘派の武将です。この後訪れる予定の一条谷に居を構え、越前を支配していた朝倉家が織田信長に滅ぼされ、その後この地にて越前一向一揆派と越後の上杉謙信の抑えのため、最も織田家で信頼置ける柴田勝家にこの地を任し、この北の庄に城を構えた訳ですね。 その後、朝倉家と共に攻め滅ぼされた浅井家に嫁いでいた織田信長の妹「お市の方」を正室に向かえました。その際浅井長政とお市の方の間の3人の娘「茶々」「初」「江与」も娘として引き取りました。 本能寺の変の後、織田信長の意思を継いで天下統一に乗り出した後の豊臣秀吉こと羽柴秀吉と賤ヶ岳の戦に破れ北の庄に敗走し、子供3人を秀吉に預け柴田勝家とお市の方は城を枕に自害して果てました。 この際、勝家はお市の方に子供とともに秀吉を頼って逃げるよう諭しましたが、聞かず勝家とともに自害したことから、ここの敷地内にある神社には、夫婦の固い絆のお守りが売られてます。 ちなみにこの3姫の内、茶々姫は御存知のとおり豊臣秀吉の側室となり、お世継ぎ秀頼君を産み、その後の時代の流れに大きな影響を与えました。江与姫は徳川家康の跡継ぎ、2代将軍 徳川秀忠の正室となり3代将軍家光を産み、 徳川幕府を支えました。まさに今に繋がる時代の分岐点で、その後の歴史に大きく関わったわけです。 そんなお姫様が幼少期を過ごした場所なんですよね〜。 | |
右の写真がお市の方の像です。なかなか美人です。実際はどこまで美人なのか判りませんが、当時の書物では絶世の美女と言う事です。 左の井戸跡は・・・・・なんだっけ?忘れました ^^; | |
続いて北の庄城跡から車で約15分くらいの所、福井市内から少し山手へ離れた位置にある、一乗谷朝倉氏遺跡です。
ここ一乗谷地区は、西は御茸山、東は一乗城山、南は三峰に囲まれ、北に足羽川が流れる天然要害の地で、一乗谷川に沿って開けた細長い谷にあり、川を挟んで東側には朝倉館、
西側に武家屋敷や町屋などの町並が広がっていり、朝倉館の背後の山には詰め城の一乗谷城があったたそうで、信長に滅ぼされた後荒廃し砂に埋もれていましたが、昭和42年からの発掘調査によって、400年ぶりに
その栄華の後が蘇り、当時の城下町の姿を偲ぶことができます。 かつては、朝倉氏の館や武家屋敷・寺院、職人や商人の町屋などが所狭しと建ち並び、万を下らない人々が生活し、越前の中心地として栄えていたそうです。 上の写真左が資料館にある一乗谷地区の町並みの模型、右は一乗谷川です。写真の川は北側より見てるので、この川の左側に模型の様な町並みがあったんですね。 | |
上の写真左は一乗谷地区の町並の跡地で、区画別けされた石垣等が見えます。右は川の対岸にある朝倉屋敷跡地です。 ここは昭和42年の発掘調査開始までは殆どが土に埋まり、田畑が広がっていたそうで、区画の境の石垣が田んぼのあぜ道だったらしく、この地に住んでいた方もそんなものがあるとは思うわず走り回っていた と言う話を聞きました。 | |
写真左は朝倉屋敷の正面門の唐門。右は朝倉屋敷跡地を少し小高い位置から見たようすです。余りに大きすぎて全体が写ってませんが^^; ここ一乗谷は“応仁の乱”で都が戦火にかかると、公家や僧侶・文化人たちは都を捨て、朝倉氏の庇護を求めて一乗谷を訪れました。都人のもたらす文化の香りを吸収し、華やかな京文化が栄え、当代有数の文化都市として賑わったと言う事です。 さらに戦国時代、都では将軍さえ命を狙われる世の中。都の騒乱から逃れた足利義昭(のちの足利幕府15代将軍)もここに逗留し、朝倉義景に都に上り都の騒乱を収め自分を次期将軍に推して欲しいと、同じく逗留していた明智光秀 を通して依頼していたが、朝倉義景は動かず、業を煮やした足利義昭は明智光秀と共に、当時岐阜を治め天下布武を唱えた織田信長を頼り、結果信長の力により次期将軍の座に付き、明智光秀も織田家の大名に取り立てられました。 この時朝倉義景がもっと実行派で足利義昭を奉じて都に上っていれば時代は大きく変わってたんでしょうけどね。 その後、織田信長は“姉川の合戦”で朝倉・浅井連合軍を破り、1573年信長の再度の越前侵攻の前に一乗谷城は落城して灰燼に帰し、朝倉義景自信も一族の裏切りもあって越前大野城下で自刃して名門朝倉家は滅亡しました。 写真の屋敷跡地の規模を見ただけでも判るように、当時の繁栄ぶりはかなりのものだったんですね。それが当主の決断力のなさと、時代の流れを読む事が出来ないばかりに、一族を滅亡に追い込み、市民に犠牲を強いる結果となったわけです。 まさに、今の日本の政治家や企業のトップにもこういう人沢山いますよね。大丈夫だろう〜か・・・。 | |
続いて、朝倉屋敷から川を挟んで対岸にある、一乗谷地区の町並の跡地です。今も復元作業は続いているそうですが、ここを歩いていると戦国時代の町にタイムスリップしたような感じです。この日は雨も降って、訪れる観光客も少ない事もあり余計情緒を感じる事が出来ました。右の写真は武家屋敷の裏手の、今で言う庭になるのかな? なんかこの雰囲気子供のころ田舎のおばあちゃん所に行ったとき、こういった雰囲気の所があったような・・・微かな記憶ですが。
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上の写真は集落の中にある武家屋敷の中の様子です。8畳から10畳位の広さかな? 2部屋あり、この隣には台所があります。狭い様に感じますが、これ以外に外に茶室があり、これでも結構な身分の武士が住んでいたんだと思われます。当時ではそこそこ裕福な部類に入るのかな?まあ、庶民なんて畳の部屋なんかありませんからね。
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一条谷を後にして、帰るにはまだ少し早いのでここから車で30分ちょっと行ったところにある「丸岡城」へ行く事にしました。 このお城は、朝訪れた北の庄城の柴田勝家の甥の柴田勝豊が築城した城で、屋根が珍しい石瓦でふかれたこの現存する天守は日本最古を誇っており、城郭建築史上の重要な遺構とされており、国の重要文化財です。多くのお城は戦災で焼失していますが、このお城は戦災を免れた城に一つですが、昭和23年の福井大震災により倒壊しましたが、市民や県民の努力もあり見事復興しています。 このお城は、戦があるたびに大蛇が現れ、一面に霞を吹いて城を隠し、敵の攻撃を免れたという伝説など、多くの伝説が残っている城です。 | |
内部はやはり昔のままの状態で保存されているだけに薄暗く木の香りただよう、古い日本家屋の匂いがします。階段もほぼ垂直に近い角度の階段で、何処につかまらないととてもじゃないけど登る事が出来ません。登る方は何とかできても、降りる方はめちゃくちゃ怖く、一応ロープが垂らしてあって、それにつかまると言うか、殆どぶら下がる様にして降りる感じで、お年寄りや女性はかなりきつそうです。昔の人はこの階段を腰に刀を差し、甲冑姿でも昇り降りしていたんだろうから、どんだけバランス感覚が良いんだって感じです。たぶん何人かは階段から落ちた人もいるはずですね・・・たぶん^^; 先ほども書いたようにこの城には数々の伝説が今も残っており、その一つに「人柱伝説」と言うちょっと悲しい有名な伝説があります。城の前にこの伝説についての立て看板がありましたので、その記述を覚えてる範囲で紹介します。 柴田勝家の甥である柴田勝豊は、丸岡城築城の際、天守閣の石垣が何度積み上げても崩れ落ちてしまうので、家臣の者が人柱を入れることを進言。そしてその人柱として選ばれたのが、夫に先立たれ二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていたお静という片目を失明した女性でした。 彼女は、かわいい2人の息子の将来を考え、2人の息子のうちどちらかを必ず侍に取り立ててもらうことを交換条件に、自ら人柱になることを決意。彼女は息子達に別れを告げ、天守閣の中柱の下に、人柱として生き埋めにされました。 それからほどなくして、見事天守閣は立派に完成しました。しかし、勝豊は他国に移ることになってしまい、お静の息子は侍に取り立ててもらえませんでした。お静の亡霊はこれを恨み、その怨念はやがて毎年、年に一度藻を刈りをする4月頃になると、春雨で堀には水が溢れ、人々は「お静の涙雨」と呼び小さなお墓をたてて霊をなぐさめた。「堀の藻刈りに降るこの雨は、いとしお静の血の涙」という堀の藻を刈り取る際の作業唄が伝えられていると言う事です。 せっかく命まで投げ出して人柱になったにも関わらず、お静との約束は果たされなかったのとは、ひどい話ですね〜。 | |
戦国時代に建てられた城だけあって、攻められた時の備えもそこかしこにされています。その一つが上の写真にある壁から少し飛び出た出窓みたいな場所があり、ここから石垣を登って攻めてくる敵に対し石などを落として攻撃したそうです。こう言う仕組みはやはり戦国時代のお城には結構見られる備えですね。右の写真がそれを外から見た様子で、石垣に近づくと上から大きな石を落とされる訳ですからちょっと怖いですね。でも出窓の無い所からいくらでも上れそうだけどね^^
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天守閣から見る城下の様子はやはり素晴らしいですね〜。今までも色々お城を見て来て何時も思うことだけど、こうして天守閣から城下を眺めると、なんか天下を取ったような気持ちになれるね〜。今まで見た中では岐阜城天守から見た風景が一番だったかな?岐阜市内はもとより遠く名古屋から伊勢湾方面まで眼下に見えましたからね。
ここの見学が終わった時で午後4時半。すぐ近くの高速道路入り口より高速道路に乗り、途中SAでお土産を買って帰路につきました。福井はサバのへしこが有名で、是非これを買って帰りたかったんだけど、10℃以下での保存が必要で、さすがに来週広島に帰る時に持って帰るのは厳しいそうなので、今回はあきらめました。次回何とかこれを買って一度正味したいものです。 今回訪れた北の庄及び一条谷は、日本史、特に戦国時代に興味を持って色々書籍を読みあさっていたころから一度は来てみたかった場所でした。残念ながら天気には恵まれませんでしたが、逆に雨が降っている事による風情を感じる事も出来てかえって良かったかな?と自分を慰めてます。 そうそう、今回北の庄へ行く前に寄ってみたかったけど、時間の関係で行けなかった賤ヶ岳の戦の行われた賤ヶ岳へ、近いうちに行ってみたいと思ってます。 |