古都奈良の平城京と瑠舎奈佛

10月4日土曜日。昼間の気温も下がって秋らしい季節になってきた。
ここ三重県に来て早3年と半が過ぎ、京都や大阪には良く観光で出かけたけど、よくよく考えてみるともっと近い世界的観光地「奈良」には一度も行っていないことに気づいた。
奈良と言えば京都・平安京よりも以前、1300年以上も前に都(平城京)が有った場所だ。その時代は学校の日本史でも習ったけど、大国(現在の中国)から多くの文化や技術が入ってきて、その大国文化を 基に日本文化の基礎が出来つつあった時代ですね。従ってここ奈良には日本の基礎が多く存在する場所でもあるわけですね。
そんな奈良が京都よりも近くになるのに、京都は何度も足を運んでるけど、奈良は1度も行ってない。

と言うことで、行楽日和のこの日、奈良平城京へ行ってみることにしました。
最初は電車で行くつもりだったんだけど、亀山から奈良方面の電車は1時間に1本しか走ってない・・・。朝出かける準備をすませ、電車の時刻を確認したと所、タイミングが悪く今からだと電車に乗れるのは1時間半後。 車で行った場合は2時間かからないで行ける距離なので車で行くことにしました。
家を出て約2時間、無事奈良に到着し、近鉄奈良駅から東の最初の目的地「興福寺」のすぐ近くの駐車場に車を停めます。土曜日とはいえこの時期紅葉にはまだ早いし、海外や遠方からの観光客は多いものの、関西地区等自家用車で くる観光客は多少少なくなる時期と言うこともあって、駐車場も結構空いてます。


車を停め歩いて2分程度で「興福寺」に到着です。階段を上って右手に「五重塔」「東金堂」があります。なにやらこの週末には東金堂の前で何かあるようで、柵と舞台及び椅子が沢山並べてありました。

興福寺は、法相宗の大本山で、その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、669年に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人の鏡大王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営したものと伝えられています。
その後、壬申の乱(672年)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移建され、その地名を取って厩坂寺とされ、さらに平城遷都(今の奈良)の際(710年)藤原不比等の計画によって移され「興福寺」と名付けられたそうです。
天皇家や藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北家との関係が深かったそうです。



五重塔及び東金堂から西方面に少し移動し、両方の建物が収まる位置にて撮影。なかなかいい感じの写真が撮れました。
そのまま少し西方面に歩くと、写真右の南円堂があります。名前のとおり八角形の円堂です。南円堂は西国三十三箇所第9番札所です。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されています。
なお、この日は行かなかったけど、この南円堂の北側には北円堂もあります。

更に東金堂の北側、には多くの文化財を納めた国宝館がありました。元は食堂が建てられていた場所です。
国宝館にはその名の通り、国宝や重要文化財の仏像や絵画など沢山展示してあり、なかでもここで最も有名なのは本やTVで何度も観て私もよく知っている「千手観音」「阿修羅像」ですね。 実際に見ると結構大きな観音様で手には色々な物を持っています。残念ながら館内は撮影禁止なので写真は撮れません。


次に、奈良公園を東へ横切って春日大社へ移動です。公園内の広場はもちろん、道にも多くの鹿が寝てたり、歩いてたり、道端の餌を食べていたりと、自由奔放に暮してます。この鹿は国の保護動物に指定されていて、 虐めたり公園内の至る所で売っている「シカせんべい」以外のエサを与えることは禁止されています。あと、公園内を歩いてて感じたんだけど、京都と同じくここ奈良も外国人観光客が多い。

次に訪れたのは、興福寺から東に歩いて15分位のところにある春日大社です。
境内の入口の鳥居を通った所の手洗い場は、さすが奈良ですね〜。鹿の像の口から水が出ています。


上の写真が春日大社の本殿です。この日も多くの方がお祈りをされてました。私ももちろん、家族の健康と一日も早い単身赴任終了をお祈りしておきました。

春日大社は、平城京の守護の為に創建された御社で本殿が四殿並んで建っており、第一殿は茨城県の鹿島神宮から迎えられた武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、第二殿は千葉県の香取神宮から迎えられた経津主命(フツヌシのミコト)、 第三殿は天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と第四殿は比売神(ヒメガミ)は大阪府枚岡(ひらおか)神社から、それぞれ春日の地に迎えて祀られているそうです。奈良時代の768年に現在地に四所の神殿が創設されたのが始りで、 藤原氏の氏神として有名です。

左の写真は本殿裏ですが、金色の灯篭が沢山吊り下げられていて奇麗でした。
更にここ春日大社境内には本殿以外にも数多くの社があり、右の写真はその中の一つ縁結びの神様の社ですが、さすが縁結びだけあって絵馬がハート型です。

春日大社を後にして、そこから少し北方面に移動したところに東大寺があります。ここも境内には多くのお寺がや堂があり、左の写真はその中の一つ二月堂です。二月堂の名前の由来は、修二会が旧暦の2月に行なわれることからきてるそうです。 二月堂からは東大寺を手前に奈良の市内が一望出来て非常に眺めが良かった。右の写真がその眺めですが、写真ではうまく感じが出てないですねー。写真右手前に見える屋根が東大寺大仏殿です。眺めが良いだけに観光客を沢山足を停め記念撮影をしている人が沢山です。

二月堂を降りると、目の前の道に「左大佛殿道」と書かれてて、その道の壁は写真のように土壁になってて、強度を出す為か瓦が埋め込まれてます。昔の壁って感じですね。

更に大佛殿に向かうと、途中「正倉院」の道しるべが。少し離れた所の様だけど有名な建造物なので行ってみることにしました。

正倉院は東大寺大佛殿の北西にあり、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、世界遺産にも登録されています。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた施設で、 現在は宮内庁管理で、宝物には日本製品、唐(現在の中国)や、ペルシャなどからの輸入品を含めた絵画・書跡・陶器等々、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く保管されています。中でも奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である 正倉院文書、東大寺大佛開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫でなんだそうです。

なのに・・・・。目の前まで行って判ったんですが、なんと土日祭日は閉まっているとの事。平日しか拝観出来ないようです。なんと、こんな歴史的建物を観光客の多い休みに閉めてるなんて。知らずに来た観光客もガッカリですね。

正倉院から引き返して次に訪れたのは東大寺・大仏殿です。東大寺盧舎那仏像は、東大寺金堂(大仏殿)の本尊で、聖武天皇の発願で745年に制作が開始され、752年に開眼供養会が行われました。しかしこのような大規模な建設工事は国費を浪費させ、 日本の財政事情を悪化させたそうです。護国信仰の為に創建されたにも関らず、民衆を疲弊させる結果になったのですね。
大仏及び大仏殿は度重なる災害や、戦国時代にはこの地方を治めていた松永久秀による戦火による焼失等で、創建当初の部分は台座、腹、指の一部だけだそうです。大仏の正式名称は「盧舎那仏坐像」、大仏殿の正式名称は「東大寺金堂」

奈良の大仏を見に来るのはこれが3度目で、1回目は中学生の時の修学旅行で来ているが、その当時はこれら重要文化財の素晴らしさなど眼中になく、ただただ友達とじゃれあってばかりで殆ど記憶なない。 2回目は会社の研修所が天理にある事もあり、ここ奈良は大阪ら来ても、京都経由で来ても降り立つところなので、その際に一度来たけど、その時は大仏殿の改修工事中で大仏は見れてけど、周辺は工事のテントや資材だらけで ありがたみがほとんど無かったので、今回が初めてまともに東大寺及び大仏を見ることになります。

大仏様がお座りになっている台座には写真の様な彫刻が施されているそうです。

大仏殿の中には大仏様以外にも各種の像があります。また大仏殿の歴史がわかる展示もあります。現在の大仏殿も結構な大きさですが、創建当時の大仏殿は現在の3倍近い横幅があったらしく、かなり大きな建造物だったようですね。

大仏殿の柱の一本に写真の様な人が一人通れるぐらいの穴が空いてて、みんなそこをくぐる為に順番待ちしています。まあ誰でも通れるとは言っても、太めの体ではひっかかって恥をかきますからね。 俺は・・・大丈夫だけど、良い大人が(しかもおっさんが・・・)柱をくぐるのは恥ずかしですから・・・止めときます。

しかし、この一帯は鹿が多いですね〜。お土産物売り場の周辺にも鹿はいて、写真の様にお店の目の前に寝転んで、行きかう観光客を観察してます。お店の方も商売の邪魔だと追い払うわけにも行かないですからね〜。まあ、逆に観光客が足を止めて鹿の写真を撮っているので 客寄せ・・・と言う考えも出来るかな?

一通り見て回った時点で時間は午後3時を過ぎたところ。最後は奈良のお土産と言えば「奈良漬」というベタな考えの下、近鉄奈良駅の横のアーケードの奥にある奈良漬専門店に行き奈良漬を購入し家路につくこととしました。

今回の奈良見物は近鉄奈良駅周辺だけでしたが、これ以外にも法隆寺やその他多くの歴史的遺産がここ奈良には数多く存在します。今まで京都ばかりに出かけていたけど、これからは2回に1回は奈良に来ようと決心している今日この頃です。


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