天下布武の城「岐阜城」・国宝「犬山城」観光

9月24日、以前から行きたいと思いながら、なかなか行くチャンスが無かった「岐阜城」「犬山城」に行くこととしました。

朝9時前に亀山のアパートを車で出発し、国道306号線を北上。途中から東方向に向きを変え長良川に出て、そこから長良川沿いにしばらく北上しました。アパートを出ておよそ1時間、墨俣市に入ったところで前方にお城が見えてきました。
墨俣城です。墨俣城の近くを通ると思ってなかったので、寄るつもりではなかったんですが、ここまで車を1時間以上運転して来ているし、せっかくなので休憩も兼ねて寄ってみる事としました。

写真左が墨俣城です。墨俣と言えば、あの太閤秀吉がまだ木下藤吉朗の名前で足軽大将だった時、当時の美濃(現在の岐阜)攻めに苦労し、墨俣に美濃攻めの足がかりを作ろうと譜代の家臣に砦を築かせようとして何度も失敗。最後に 木下藤吉朗に墨俣築城の全権を与え、それに見事に応えて墨俣に一夜城を築いたことで有名な場所です。
現在の墨俣一夜城は最近になって資料館目的で作られたお城のようですね。本来秀吉が作った一夜城は、写真右の様な周りを馬坊柵で囲んだだけの簡素な砦だったようです。こんな立派なお城が簡単に建てられるわけありませんね。

お城の内部は墨俣の歴史を紹介した資料が展示されており、その中の一つには秀吉の一夜城の事もかかれています。一夜城のお話は 秀吉が一夜で何もなかった所に城を築いた様な事が言われていますが、実際は3昼夜かけ簡単な砦を築いただけのようです。でも工事は主に夜間に行われたこともあり、ある日忽然と現れた砦を見た美濃の軍勢や地域の人々は一夜にして 城を築いたと見え、それが人から人に伝わるうちに「一夜城」の伝説になったようですね。
写真左がその秀吉が築いた砦の模型です。実際はこのような砦を作ったんですね。でもこの砦を築いた事で、信長の美濃攻めは大きく前進し、天下取りへの第一歩となったわけです。
写真右はこの地の発掘調査で出てきた、砦築城当時の人足が装備していたであろう兜です。


墨俣から再び車に乗り、ここからは長良川を離れて岐阜市内へ。目的地の岐阜城がある金華山は岐阜市中心街の北部にそびえ立っていました。 早速車を停めるべく岐阜公園駐車場に向かいましたが、すでに車が数台駐車待ちの列を作ってます。周りを見渡しても他に駐車場が見えなかったので、素直に列の後ろに付けて待つことにしました。後で金華山の上から見たときに 判ったんだけど、少し離れたところに大きな駐車場がありました。しかもそちらは満車ではなく並んでもいない様子・・・。知らないとはいえ30分近く駐車の列に並んでいたのがバカみたいでした。


左が金華山麓から見上げた岐阜城です。山頂へは麓の岐阜公園内にあるロープウェイで登ります。料金は往復で1050円。もちろん徒歩で登ることも出来るようだけど、さすがにそんな時間も無いし、この高さを歩いて登るのはチョット・・・。
早速往復件を購入、次の出発時間まで10分位あるので御土産物を見て回り、時間になったのでロープウェイに乗り込みます。

途中写真左の三重塔が見えます。これは大正天皇御大典を記念して1916年5月建立されたもので、内部には弘法大師などがまつられているらしいのですが、残念ながらこの日はここへは行きませんでした。なので写真だけ・・・。

約10分で山頂の駅へ到着です。駅の直ぐ脇には「リス村」があり、この日は休日ということもあって、子供たちや家族連れでにぎわっていました。当のリスたちは、さすがに人が多く鬱陶しいのか、塀の網の上のほうにしがみついていました。

右の写真は山頂駅から少し出たところから見上げる岐阜城です。まだここから少し登らないといけないみたいです。

ここで岐阜城に付いて資料を見ると、ここ金華山はもともと稲葉山と呼ばれ、信長が移り住む前までは稲葉山城と呼ばれていました。この城は戦国時代、美濃を治めていた斉藤道三が城主でした。その頃尾張統一に破竹の勢いで台頭してきた 織田信長に長女「濃姫」を輿入れさせ、同盟を結んでいましたが、斉藤道三がその子、斉藤義龍と争い殺され、その数年後には病死した義龍に変わりその子供、斉藤龍興が城主となる。しかしこの龍興は美濃を治める才覚はなく、 それを見定めた織田信長は美濃攻略に着手。しかし長良川や木曽川、それに急峻な山肌等の天然の要害に守られた稲葉山城はなかなか攻め落とせない。そこで、墨俣に足場を作りここを起点にすることでその数年後稲葉山城は陥落。 信長はこの地を治め、ここを天下統一の基点とすべく地名を中国周の文王が岐山から天下を統一した故事に基づき岐阜と改め、岐阜城となりました。

尾張の国から軍勢を率いて京に登るには、この岐阜城はどうしても手に入れておかなければならない重要な位置にあったわけですね。

山頂駅から歩いて岐阜城入り口まで登ります。この日は曇ってて気温はそんなに高くないけれど、さすがに階段はあるとはいえ山を登るわけですから、入り口に着いた頃には汗だくです。

この岐阜城も先の戦争の空襲で崩壊し、現在の建物は戦後に再建されたもので、他の最近の再建された城と同じく外観も綺麗で、内部は鉄筋コンクリートの資料館で、写真左のような多くの甲冑や刀等が展示されて います。
写真右は織田信長が武力を持って天下統一をすることをアピールするために用いた「天下布武」の朱印です。残念ながらこれも本物ではなく複製品のようですね。

そんな各種資料を見て回り、最後は天守閣最上階の展望です。さすがに高い山の頂上に建っているだけあって、景色は最高の眺めです。この日は残念ながら天気が悪く、空気も霞んでいて遠くまで見えませんが、空気が澄んでいれば 名古屋市内はおろか伊勢湾まで見渡せます。もちろん岐阜市内は眼下に一望できます。写真左は岐阜市内及び長良川ですね。信長はここに立って下界を見下し、天下統一を夢見たんでしょうね。確かにこの風景を見ていれば 天下を手に入れたような気分になれます。右は山頂駅方面を見下ろした写真です。とにかく高いです。

お城を出て周りを散策します。周りは急斜面で、写真では判りにくいですが、ここを歩いて登ることは不可能ではないかと思えるほどです。でも戦国時代に木下藤吉朗(豊臣秀吉)は、ここを登って稲葉山城の一部に火を放ち 岐阜城陥落のきっかけを作ったんですよね。先ほどの墨俣一夜城と言い、ここを攻め上った事といい、秀吉の能力の高さには驚かされますね。

右の写真は当時の本丸井戸の跡です。やはり急峻な山頂にあるだけに、籠城する場合にもっとも大切なのは水の確保ですからね。

左の写真はお城から山頂駅に戻る道中にある天狗岩で、ここは秀吉の千成瓢箪発祥の地と言う事です。

稲葉山城の裏手から敵方に気づかれないように山を登り、この地へ辿り着いた事により作戦の成功を確実視した秀吉は持っていた瓢を掲げ勝鬨を上げた場所です。これ以降秀吉は馬印に瓢を用い 戦に勝つたびに瓢の数を増やしていき、千成瓢と呼ばれましたね。

それにしてもこの岩の周辺を見ても、急な斜面ばかり。よくもまあ武装した状態でこんなところを登ったもんですね。まあ、それが出来たからこそ、その後の目覚しい出世があり、最後は百姓から太閤にまで登りつめ 天下を取ったわけです。凡人の私には想像できないのも仕方ないかな・・・。

一通り見て回って山頂駅近くまで戻ったところで、時間も1時を回っていたので展望レストランで昼食を取ることとしました。メニューを見ると岐阜名物「どて丼」って書いてあるので迷わずそれを注文。メニューの写真だと良く判らなかったので、どんな 物か楽しみにしてましたが、出てきた丼を見ると、モツを八兆味噌で煮込んだ様な物がご飯の上にかけてあるだけ。どてってのはこの八兆味噌で煮込んだモツ意の事なのかな? 味は基本的に味噌味は好きなほうなので結構美味しかったです。しかし、何時も思うんだけど名古屋を中心としたこの地方の料理は味噌味の物が多いね。味噌文化なんですね。


昼食を済ませ、再びロープウェイで下山し、岐阜公園内を少し散策すると、「千畳敷御殿」とも呼ばれた「織田信長居館跡」がありました。信長に限らず、殿様はお城に住んでいるわけではなく、平時は城下の居館に住んでいたわけです。今は何もなく土塁状の遺構等が残るだけの跡地ですが、当時はここにかなり豪華な建物があったようで、当時の宣教師「ルイス・フロイス」 が書き残した書物にそう書かれているようです。

更に散策していると、今度は板垣退助の像があります。これは自由党党首として全国遊説中の1882年4月6日、この岐阜公園で暴漢に襲われたことを史実として残すため建設したものだそうです。この暴漢に襲われたときに 言った言葉が有名な「板垣死すとも自由は死せず」です。

岐阜公園から再び車に乗り約30分位で、愛知県犬山市にあります国宝「犬山城」に到着です。ここには大きな観光用駐車場が目の前にあったので直ぐ停められました。

ここ犬山城は別名を白帝城と言い、1537年に織田信長の叔父、織田与次郎信康が築城し城主となり、その後何代か城主がかわり、1600年の関ヶ原合戦の後には小笠原和泉守吉次が城主となる。その後、1617年には成瀬隼人正正成が城主となり成瀬家が継いで明治に。 明治4年の廃藩置県で廃城となり天守を除いて殆ど取り壊され、さらには濃尾震災で城の一部がこわれ、旧犬山藩主だった成瀬正肥に城を修理するという条件で譲られ唯一の個人所有として平成に至りました。昭和10年5月に国宝に指定され、 平成16年4月、財団法人「犬山城白帝文庫」が設立され、城の所有者は成瀬家から財団法人になりました。

つい最近までこのお城は個人所有だったんですね。それも珍しい事です。またこのお城は天災で一部崩壊、修理をしているとはいえ、昔の状態を残す城として、姫路城、彦根城・松本城と共に日本国宝4城に指定されています。しかも その4城の中でも最古のお城です。

中は4階建てになってます。ただ単純に4階だてでは無く、一部に石垣の中2階のような感じのものもあります。さすがに昔のままの状態で残っているだけに、城の外部もねんきが入っていますが、内部も古い材木や石垣が組まれていて、 独特の古い日本家屋の臭いがします。天井や柱を見ても昔の建築技術を垣間見ることが出来ます。とにかくこれだけの木造建築なのに、釘がほとんど使われていません。

右はお殿様が来訪者と謁見する間で、奥には近習が潜む部屋があります。もしも来訪者がお殿様に襲いかかろうとしたら、いつでも飛び出して相手に斬りかかれるようになっているんですね。

城内の階段はさすがに昔のままですね、めちゃくちゃ急で角度にして70℃位あるんじゃないかな。とにかく手すりに掴らないと昇り降りできません。最近再建されむしろ資料館の色が濃い、名古屋城や大阪城は階段が登りやすい 作りになっていますが、本来のお城の階段はこれが当たり前なんですね。

右の写真は柱をうろちょろしていたヤモリです。さすがにこんなところからも昔の姿のままであることが判る様なきがします。昔の日本の家屋にはヤモリがよく居たものですよね。子供の頃田舎のおばあちゃんの家に 行くとよく見かけた覚えがあります。

最上階の4階は四方を見渡せる展望室になってます。ここでも昔のままであることを思い知らされる所がありました。写真左を観ると判るように、手すりがめちゃくちゃ低い・・・。 名古屋城や大阪城等、最近再建されたお城は皆、安全の為も有って手すりが高くなっているか、網が掛けてありますが、ここにはそんなものはありません。誤って手すりの向こうに落ちたら、下まで落ちてしまいます。 でもどのお城もそうですが見晴らしは良いですね。少し腰が引けながらも一周見て回りました。

犬山城を出て、周辺の資料館やからくり館等も見学し帰路に着きました。帰りはさすがに夕方の時間帯に名古屋市内を抜けるのは時間がかかりますから、名古屋近郊まで行って高速道路に乗りました。夕方の時間帯は 100Km以内の利用だとETCを使えば、高速料金が半額になりますから迷わず利用です。

東海地区に転勤してきて早2年半。来た当時から何時か行こうと思っていた岐阜城と犬山城に行くことが出来ました。まだこの地区は再建城とはいえ、歴史の舞台となったお城や戦場跡が沢山あります。ここにいる間に 出来るだけ沢山行こうと思ってます。

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