関が原古戦場跡めぐり
9月23日先週に引き続き3連休の初日です。近づいていた台風も東方面にそれたようで、三重県は多少風があるものの影響はほとんど無く良い天気です。前回6月に伊勢参りに行って以来、仕事も忙しくなりなかなか観光に行けなかったけど、 ここに来てようやく休みがまともに休めるようになったので、久し振りの観光に朝から出かけました。

日本の歴史においては子供の頃から戦国時代に興味があり、一度は行って見たいと思っていた場所が、西暦1600年9月15日に現在の岐阜県は関が原にて行われた天下分け目の合戦の古戦場跡です。
この戦いは秀吉亡き後の天下を手中に収めようとする徳川家康と、秀吉の子秀頼を擁して豊臣の世を安泰にしようとする石田三成による天下分け目の合戦です。関が原の合戦について知りたい方は、関が原の合戦を参考にしてください。
この戦いで徳川率いる東軍が勝ったことにより、徳川250年(江戸時代)の歴史がスタートするわけですね。また同時にこれにより今の東京が首都となったわけです。従ってこれで西軍が勝っていれば、現在の首都は大阪ってことですかね。まあ、それはさておき旅の話です。

朝9時出発で国道306号線を北上し岐阜を目指します。途中「これが国道??」って位めちゃくちゃ狭い道路があるんです。山の中の道で、対向車と離合するのに苦労するような道で、とても国道とは思えません。そんな道もありながら、出発からおよそ1時間半で、岐阜県関ヶ原町に着きました。
最初に着いた場所は、カーナビにも大きく出ていた「石田三成陣跡」のある笹尾山です。ところがここで誤算です。この笹小山の直ぐ傍には小学校があり、この時期って何処の小学校も運動会の時期なんです。この小学校も、なんとこの日が運動会で学校周辺は保護者の車で一杯です。 当然この笹尾山麓の観光用駐車場にも保護者の車が沢山で、停める場所がありません。仕方なく、その辺りの道に路上駐車です。とは言っても田舎の田畑の中の道ですから、駐車禁止の表示も無く、道の端に寄せて他の車の通行の妨げにならなければ、特に問題は無いんですけどね。 実際、駐車場に入りきらない保護者の車も沢山路上駐車されてるし。
私達が付いた時丁度、運動会のプログラムは子供達による武者行列をやってました。やっぱり古戦場跡にある学校ですね。皆見事な甲冑姿で行進してます。しばし見とれた後で、笹尾山に登ってみました。登ると言っても数十メートルの距離ですけどね。
左の写真が笹尾山にある石田三成陣跡に立つ石碑です。ここに石田三成は陣取って徳川家康率いる東軍と相対したわけです。三成は武力には劣るものの、政治手腕の高さは東西随一で、その能力を買われて秀吉に重用されます。その秀吉の恩に報いる為に、秀吉の子秀頼を擁して豊臣の世を安泰とする為、 天下取りの野望に燃える徳川家康と戦ったわけです。言わば忠義の人とも言えますが、別の見方をすれば世の中の流れを見極めることが出来なかったとも言えますね。三成はここに陣取り、当初は有利に進む戦の様子を眺め、その後小早川らの裏切りにより敗色濃厚となる戦を眺め、そしてとうとうこの笹尾山 の向かって左手にある、琵琶湖長浜方面から北の越前へと抜ける北国街道を敗走するわけです。石田三成はここで何を考え、どのように戦況を見ていたんでしょうか。

右の写真がこの陣跡から見た関が原の様子です。左手に見える山の麓に東軍の総大将、徳川家康が陣取り、右手に見える山にはこの天下分け目の合戦の言わば勝敗を決する事になる西軍の小早川秀秋が陣取っていた松尾山です。何で西軍の小早川秀秋が東軍の勝利する合戦の勝敗を握っていたかは、 歴史の勉強でも習ったはずですので皆さん御存知ですよね?忘れた方は、上で紹介した関が原の合戦について書かれたページを見るか、後でその小早川秀秋の陣跡の紹介のとき少し書きますので、学校で習ったこと思い出してください。
左の写真は石田三成が陣取る笹尾山の直ぐ麓にある関が原の合戦の勝敗が決した決戦地です。小早川らの内応により一気に形勢有利となった東軍が西軍総大将石田三成隊を総攻撃、この戦で最も激しい戦いを繰り広げた場所です。ここでの戦で敗れた石田三成は敗走し、西軍は総崩れとなったわけです。ここでは 東軍も西軍も多くの人が亡くなっています。今でもこの辺りを掘り返すと、当時無くなった方の遺骨が出てくるかも知れませんね。なお知らない方の為に説明しますと、写真左の幟が石田三成の旗印で、右が徳川家康の旗印です。

右は西軍の武闘派とも言うべき島津義弘の陣跡です。島津家は九州薩摩の大名で政治的駆け引きも上手く判断力もあり、生涯において何度も戦場に赴き、その作戦もトリッキーで実行力も高い武将です。なんせ九州の大半を平定していた武将ですからね。その島津義弘は、石田三成の陣から北国街道を挟んだ反対側に陣を 構え、北国街道を守備していましたが、なんと薩摩から率いてきた兵の数はたったの1000人でした。政治的駆け引きに長けていた島津は、おそらく戦の前から世の中の流れは徳川に傾いているのを読み取っていたんでしょうね。だから無駄な兵を失いたくない思いからかも知れません。しかし彼は その後の徳川の世で「西国に島津あり」を家康に見せ付けるため、三成敗走し敗色濃厚の中でなんと1000人の兵を率いて徳川家康本陣に突撃しました。その敵中突破の勢いに押され、東軍は腰が引け、ひるんだ隙を見て家康本陣の目の前を横切り伊勢街道に走り抜けたそうです。その後も東軍の執拗な追撃に島津豊久らを はじめ兵の大半を失うけど、伊勢街道を下り無事薩摩へと逃げ帰ったそうです。これにより薩摩武士の勇猛さを世間に知らしめ、徳川の世になっても島津は薩摩の大名として続くことになるわけです。凄いですよね、世の中を見る目を持っていたこともですが、お家を守るために捨て身の敵中突破を果たすなんて、到底考えられない 事ですよね。
左が徳川家康最後の陣跡です。合戦の最中家康は、東軍の動きを確認するため桃配山より軍を進めて、この陣場野に陣を敷きました。最後まで味方の指揮にあたり、戦いが終わると部下が取って来た敵の首を実検したところです。首実検とは、要するに敵の武将の首を確認し、味方の兵の手柄を確認するんですね。 でも、怖いよね。敵とはいえ刎ねた首を一つ一つ見るわけですよね。考えただけで、吐きそう・・・。
この最後の陣跡の傍には歴史民族資料館があって、ここで関が原の合戦についての説明や、色々な資料が展示してあります。大半の観光客はここへ車を止めて、関が原内の各陣跡や戦場跡をウォーキングで回るようです。主なコースで約6時間だそうです。結構年配の御夫婦やグループの方が歩いて回っておられました。 運動不足の方には、良い運動にもなるし歴史の勉強にもなるし、お勧めかもしれませんね。

ここで、お昼となったので昼食をとることにしました。この後行く予定の徳川家康最初の陣跡の近くのお食事所に行きました。ここの外には写真右の様に日本の食文化の分岐点の表示があります。要はここが関西風と関東風の分岐点なんだそうです。じゃあここの分岐点のお店はどっちなんだ?ってことで食べてみましたが・・・わからん! 家康丼ってのを頼んだので、関東風なのかな?でも家康丼って何が入ってるのか期待して待ってましたが、マグロや鯛等の刺身が乗ってるいわゆる海鮮丼でした。何処が家康??って感じです。
食事も済んで、続いて写真右の徳川家康最初の陣跡です。中山道を進んで関が原に着いた家康率いる3万の軍勢が最初に陣を敷いた場所です。ここで戦況を見守っていた家康は、なかなか思うように戦いが進まないし、背後の南宮山には密約を交わしている吉川広家が抑えているとはいえ、毛利秀元の大群が陣を置いている。 業を煮やして家康はここから更に戦場へと陣を進めたんですね。毛利を抑えていた吉川は毛利御三家の一つですよね。吉川は毛利家を守るため、家康軍の背後から襲いかかろうとする毛利軍を諌め抑えたわけです。これが小早川秀家の裏切りと同じく、西軍敗退の大きな原因になったことは間違いないことです。もしも毛利軍が 三成の作戦通り家康の背後を突いていたら、東軍に勝ち目は無かったかもしれません。しかも仮に家康が敗走することになった場合は、この中山道を江戸方面に逃げるしかないのですが、ここを毛利の大群が押さえてますからね。家康もそれを知っていて毛利軍の横を関が原へ軍を進めている辺りがこの戦にかける決意を表しているのか、それとも吉川広家を 信用し、毛利軍は絶対動かないという確信があったのか、何にしても戦上手の家康の作戦は我々には理解できない部分もあります。
あとこの陣跡の直ぐ裏は東海道新幹線が通っていて、ここに居る間にも何台も新幹線が通っていきました。

右は徳川四天王の一人本多忠勝の陣跡です。本多忠勝は徳川軍の中でも超が着く位の武闘派で、家康がまだ三河の一武将だった頃から家康に従い、生涯幾多の戦に参戦しましたが、一度も不覚を取らなかったそうです。その陣跡ですが、写真では判りにくいですがなんと民家の裏庭にあります。家の勝手口を出たら石碑があるって感じの場所にあります。 写真の直ぐ左手は民家です。正直驚きです。
続いて行ったのは福島正則の陣跡です。福島正則は元々豊臣秀吉の武将で、幼い頃から秀吉に仕え、かの有名な賤ヶ岳七本槍の筆頭に数えられる武将です。賤ヶ岳七本槍って?って方は、豊臣秀吉柴田勝家が戦った賤ヶ岳の合戦を調べると判りますよ。石田三成と同じ秀吉に仕える言わば同じ釜の飯を食った中なのに、関が原では東軍に付き 最前線に布陣しています。武功も何も挙げない三成が、政治手腕のみで秀吉に重用されるのが気に入らなかったようです。そして秀吉亡き後三成が豊臣家の中心に居ることが気に入らず、徳川に付いたんですね。やはり仲間は大事にしないといけませんね。

右の写真は、福島正則陣跡から近いところにある西首塚です。別の場所にある東首塚と同様、合戦で戦死した兵士の遺体が多く埋葬されたところです。この近くを通る、東海道本線の敷設の際には埋葬された白骨が出たそうです。当初は相当な規模だったらしいですね。御冥福をお祈りします。
続いて左は藤堂高虎、京極高知陣跡です。この陣後への道案内に従って歩いて進んでたらなんと学校の門に突き当たりました。関係者以外立ち入り禁止って書いて歩けど、標識では間違いなくこっちなんですよね。学校も休みで誰も居ないことだし、ちょっと中に入って辺りを見回すと・・・ありました、なんと学校の敷地内です。 しかも隣には○○年度卒業生寄贈の樹木や石碑がある中に、この陣跡があるんですよね。先ほどの本多忠勝の陣跡と言い少し驚きです。この二人の武将も、元々豊臣家の武将なんですよね。

右は備前岡山の武将宇喜多秀家陣跡です。秀吉にかわいがられ、秀吉の養女の豪姫を正室に向かえ、若くして豊臣政権五大老の1人となった秀家は、約17,000の兵を率いてこの南天満山に布陣。開戦と同時に福島隊の猛攻撃を受け、一進一退の攻防を繰り広げました。戦後は死罪を免れて八丈島へ流され、家族や家臣とともに土地に根づき、83歳まで生きたそうです。
この宇喜多隊には、かの有名な巌流島の決闘で知られる剣豪・宮本武蔵が当時17歳でこの戦に参戦していたそうです。
最後にこの関が原の戦いで勝敗を決めたキーマンとも言うべき小早川秀秋の陣跡がある松尾山に登ることにしました。結構高い所にあり、車は麓までしか行けず、そこから歩いて約30分、距離にして約1.5キロ前後の山道です。写真でも判るように所々急な登りで、階段が整備されているとは山道のアップダウンですから、足がガクガクになりそうです。しかも途中あと何メートルとかの 表示も一切無く、何時になったら付くのか判らない状態で歩き続けますので余計に疲れます。
何とかたどり着いた松尾山山頂には小早川秀秋の陣跡があります。右がその陣跡から見た戦場の風景です。丁度正面右の奥が石田三成の陣、手前が島津義弘、宇喜多秀家の陣が見え、写真にはありませんが右手には徳川家康の陣、さらにその奥には本家の毛利軍が陣取る南宮山など、全てが一望できる絶好の位置にあります。 この場所に約15,000人の兵を配し、戦いに参加せず傍観していましたが、午後になって、豪を煮やした徳川家康の威嚇によって反旗をひるがえし、西軍の大谷吉継の陣を攻めてこれを破り、戦局を東軍有利に一変させました。
小早川秀秋は元々豊臣秀吉の正室、北の政所の兄の子に生まれ、その後、今の広島、山口、島根から九州の北部を治めていた毛利元就の息子、小早川隆景の養子となり、2年後に隆景の隠居に伴い家督を相続しました。同じく家康と密約を交わし、毛利家を守るため家康の背後に陣を置く毛利秀元の軍を抑えていた吉川家と合わせ、毛利御三家の一つです。 有名な三本の矢の一本と言う事です。秀秋は秀吉の第二次朝鮮出兵(慶長の役)では奮戦するも、総大将でありながら敵陣に自ら乗り込んだ行為を軽率とされ、秀吉の不興を買い、同じく石田三成からも総大将にあるまじき行為となじられた際に、家康になだめられたことが家康寄りになるきっかけになったとか。
それでもいざ決戦となると、戦場が良く見える位置に陣を置いていたので、西軍有利の形勢は手に取るように判ったはずです。しかし家康とも密約を交わしているし。この時わずか19歳だった秀秋はこの地で相当悩んだんでしょうね。今こそ勝負の時と石田三成は総攻撃の狼煙を上げるも反応せず、かといって家康側に付く気配も見せない。豪を煮やした家康は 味方の鉄砲隊に松尾山の小早川の陣へ向け威嚇射撃を命じ、この発砲をきっかけに意を決した小早川隊は山を駆け下り、目の前に居た西軍の大谷吉継の軍勢に襲い掛かりました。この小早川軍の内応により戦況は一変。同じく西軍でありながら、三成を嫌っていたり、家康に思いを寄せる武将達が次々と裏切り、後一歩で西軍勝利の状態から一気に西軍総崩れの 状態になったそうです。
しかし、この小早川秀秋吉川広家も本家の毛利からは裏切り者と罵られ、そのせいもあってか秀秋は精神に異常を来して没したといわれています。

この関が原の合戦の最初の陣形を見ると、素人目にも明らかに西軍有利の陣形なんですよね。西軍は主な街道を押さえていたし、周囲の山々に陣を構えている。対する東軍は退路の中山道は毛利の大群に押さえられているし、陣の大半は平地に敷いていました。この合戦の結果を知らず、陣形図を見た後の西欧の軍人は圧倒的な西軍の勝利と分析したそうです。 所が実際は東軍の圧勝に終わったわけです。もしも小早川秀秋が裏切らなかったら・・・。もしも吉川広家が家康と密約を無視し、毛利の大群が動いていたら・・・。だけど、豊臣家に仕えていた多くの武将が東軍に着いたように、世の中の流れは徳川に流れていたのです。従って仮にこの関が原で西軍が勝っていたとしても、遅かれ早かれ徳川が天下を取ったと 私は思ってます。
関が原からの帰り道「養老の滝」の看板を見つけたので寄ってみることにしました。養老の滝って言うと、すぐ頭に浮かぶのは居酒屋「養老乃瀧」です。広島に居た頃は良く養老乃瀧で宴会をしたものだけど、その養老乃瀧とどういう関係があるんだろう?と調べた結果、次のような伝説が残っているようです

むかしむかし、この美濃の国に貧しいけれど年老いた父をいたわり、それはそれは大切にしている樵がいました。ある日、薪を採りに山に入りますと、苔むした岩間から、酒の香りがただよってくるのです。ふしぎに思ってなめてみますと、酒の味がします。喜んでその水をひょうたんにつめて持ち帰り、老父に飲ませますと、この上もない良い酒だといってたいそうな喜びようです。 この父と子の笑いさざめく寿の声は、やがて奈良の都にまで聞こえていきました。時の帝、元正天皇は「これは孝行の徳を天地の神々がおほめになったのであろう。」と、天皇御自身この多芸の野におこしになり、その酒になったという美泉に浴され、「美泉は醴泉であり、若変りの水です。私自身若々しくなりました。」とおおせになり、このめでたい年を記念して、80歳以上の 老人に授階や恩賜があり、孝子節婦を表彰され、年号をわかがえりの年、即ち「養老」と改められたのです。(続日本記・古今著聞集より)

居酒屋の名前は・・・単なる酒つながりなのかな?
滝は高さは30メートで、それほど大きな滝ではないですが、滝の周りはマイナスイオンたっぷりです。おもいきり深呼吸して、日々の疲れを癒してきました。またこの滝の下流の方には菊水泉と言う日本の名水百選に指定された山から染み出す天然水があります。この水は、霊亀3年(717)、先ほどの滝の伝説にもありますが、元正女帝が奈良の都から行幸になり、 自ら飲浴され、「老いを養う霊泉」と元号を養老と改められましたほどの水です。ちょうどコンビニで買ったお茶のペットボトルがあったので、それを洗って天然水を汲んで帰り、その晩 焼酎の水割りに使いました。伝説だとお酒の味がするはずなんですが、普通の天然水と変わりませんでした。(当たり前か・・・・。)



今回の関が原観光では全てを回ることが出来ませんでした。開戦地、大谷吉継陣後、毛利秀元陣後、黒田、竹中陣跡等々、まだまだ沢山あるけど一日で全て回るにはかなり厳しいですね。まあ、また今度時間を見つけてもう一度訪れようと思ってます。
またここを訪れて感じたことは、今から405年前この地で日本を二分する戦いがあり、同じ日本人同士が殺し合いをしたわけです。ここで亡くなられた多くの人たちの犠牲が合って、その後の日本統一及び天下泰平の時代が訪れ、そして今の我々の生活があるんですよね。 今の日本の礎を築く為に犠牲になられた方々に感謝と冥福をお祈りしたいと思います。
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